速読で音声化しないコツ

2016年7月16日

速読には、音声化は厳禁とばかりに言われている。

別にそれほど無理して音声化をやめなくとも良いとは思う。
音声化すればそれなりのメリットはあるからだ。
例えば小説で言えば、臨場感を増して感じられるだろうし、記憶の定着にも一役買う。

しかし、やはり速さを追求するなら音声化はやめざるを得ないので、使い分けをオススメする。
要は、用途によって音声化したり、しなかったりできるようになろうということである。 

音声化のデメリット

・音声による情報は、1つずつ入って来ざるを得ないので直列であり一度に処理できる量が少ない。
・音にするためには一文字一文字に意識が行ってしまい、視野が狭くなり眼の移動が多くなる。
・音声化する時間が無駄。
・音声化することにより却って頭に入らないこともある
文章を一度音声に戻してから理解する読み方に慣れすぎると、
国語力の前提となる基本的な文章の情報処理能力の発達が不十分になってしまう可能性がある。

たとえば、仕事や勉強の必要上、内谷を頭に叩き込まなければならない本があったとする。
多くの人は、読み落としがあっては大変だから熟読(音声化)してしまう。
ところが、一言一句読み込んだはずなのに
結局、その本全体の内容が十分思解できないということがよくある。
これは、言葉の音声化にとらわれるあまり言葉や文章から得られるイメージを十分活かしきれていないからである。
つまり音声化に意識が取られてイメージすることが疎かになっているのである。

音声化しなくとも理解できる

音声化しないと理解できないといった先入観が大多数の方にはあるだろう。
だが、それは間違いと言わざるを得ない。
例えば、「コカ・コーラ」。
この文字を音声化せずに見て欲しい。おそらく可能である。
そして、ありありとイメージが浮かばなくとも、
「コカ・コーラ」の文字の意味するところは理解したはずである。
コカ・コーラでなくとも、普段よく目にする文字ならなんでも良いのだが、
以下のラーメン屋のメニューがあったとして見て欲しい。

・ラーメン 600円
・餃子 250円
・ビール 300円

さて、すべて音声化した方はいらっしゃるだろうか。
一番上で言えば、「てん らーめん ろっぴゃくえん」などいちいち音声化しないだろう。
でも書いてあることはきちんと理解できる。

ここで不思議なのが、「ラーメン」なら物体としてのラーメンをなんとなく画像として頭に浮かべた人もいるだろうが、
「600円」を具体的に「100円玉6枚」とか、「500円玉1枚と100円玉1枚」などとイメージした人はいないであろうということである。
少なくとも私はしなかった。イメージしなくとも感覚的とでも言えば良いのだろうか、「理解」できるのである。
理解とは感覚をつかむことであるのかもしれない。
「600」は1が600個集まったもので、「円」は日本の通貨であることはイメージ化しなくとも、
敢えて意識しなくとも「理解」している。600円という感覚が「600円」という文字により、呼び出されるのである。

字など突き詰めれば単なる「記号」である。
何かを表しているだけである。
表せるのだから、それは五感で感じたものであるはずだ。
なぜなら感じたことがないものは表せないだろう。
逆に、受け取る側は記号を感覚でわかるはずである。
その記号を知っていればの話だが。

だから「ラーメン」という文字で感覚が呼び起こされる。
人間は記号により感覚を呼び起こす、「認知」する能力があるのだ。
なので、既に感覚があるものに対して、いちいち音声化しなくとも「理解」する。
「りんご」も「Aplle」も同じものを指しているはずなのに異なった感覚が呼び起こされるのは興味深くないだろうか。
このように文字にはそれ自体に異なったものを認知させる力(記号)があるのだ。
厳密には人間の認知できる力だが。
詳しくは認知科学を学んでいただきたい。

また、論理を組み立てる際のことを考えると
音で論理は組み立てられらないことは直観的に理解いただけるだろう。
音声化する必要性があるとすれば、思考している対象を記憶する為と考える。
例えば、
何桁もある足し算を考える。
数学は論理の組み立てに他ならないだろう。
この足し算を行う時、
対象(各桁の数字)は忘れない為に音声化してはいないだろうか。
だが、音声化しなくともイメージで覚えておく事は可能である。
これは、一桁、二桁程度の足し算なら音声化しないことからも分かるだろう。
論理は音声化しなくとも組み立てられるのである。

なぜ音声化してしまうのか

次の文字を見て欲しい。

「多発性硬化症患者の腸内微生物叢の変化」

さて、大概の方が音声化しようとしたのではないだろうか。
一生懸命に「叢」という字を無理やり音声化した方もいると思われる。

それはこの文字に対して理解していない、何の感覚も持っていないからである。
逆に、音声化しないトレーニングを積んでいなくとも、
なんとなく「多発性硬化症患者の腸内微生物叢の変化」を「理解」しているか、見たことがあるか、
とにかくこの文字からなんらかの「感覚」が呼び起こされたなら、音声化しなかったかもしれない。
「ラーメン」は「理解」しているので、いちいち音声化せずに済んだのである。
試しに、もう一度。

「多発性硬化症患者の腸内微生物叢の変化」

今度はもしかすると、音声化しなかったかもと期待する。
なぜなら一回見ているので、なんとなくの文字の感覚があるから、いちいち音声化しない可能性がある。
且つ、一回見ているから、文字自体も速く認識出来たのではないだろうか。
これは別に述べるが、多読(色んな本を読む)、重読(1冊を何度も読む)すると
見たことある文字があるからある「感覚」がありなんとなく理解しているから読むのが速くなるのだ。

話を戻すと、
人は「理解」していないものに出くわしたとき、つい「音声化」してしまう傾向があると言われている。
※単語で終わるずに文章になってくると一遍に理解など至難の技なので尚更に音声化してしまう。

これは音声化することにより、記憶(感覚)が呼び起こしやすくなるから、
または、文字は知らないが「音」なら聞いたことがあるから、それを頼りに記憶(感覚)を手繰り寄せてみよう、
などと「理解」したい「意識」が働くからである。
「叢」などというちょっと見ない漢字でさえ、なんとか音声化して手がかりを得たかったのである。
しかし、音声化しても、結果的に理解できないまま終わったかと思う。
こう考えると、人間は如何に真面目なのか勉強好きなのか、と感心してしまう。
人間は「理解しないと気がすまない」のである。
しかし、例外があり、自分にとってどうでも良いと思っているものは理解しようとしないが。

結局、音声化しても理解できないものは理解できないので音声化しなくとも良いのである。

ただ、音声化することにより、メリットもある。
音声化することで「多発性硬化症患者の腸内微生物叢の変化」に対する理解が深まったのである。
単なる文字の羅列、記号であったものに音の感覚が記憶されたのだ。
よって、音を聞けば、「多発性硬化症患者の腸内微生物叢の変化」という記憶が呼び起こされる。

さらに音声化をなくした際に、どうやって理解を深めるかは別に述べる。

音声化しないコツ

まず、重要なコツが、理解することを放棄することだ。
前述したが理解しようとする思いが強いから音声化しようとするのである。
だから思い切って、無理に理解することを止めてしまう。

ここでは、「音声化しないことに慣れる」ことが最優先事項とする。
よって、理解は二の次であり、音声化しないことに慣れてから理解する方法を獲得していく。
これも前述したが別に音声化しなくとも理解出来る部分はあるが
どうしても一瞬で十分に理解できない部分が出てきてしまうのは否定できないのだ。
ただし、一瞬でも薄い理解ならできるが。

話は飛ぶが、一つのことを完璧に理解するなど、土台無理なのである。
と、私は思っている。
なぜなら、完全な理解とは定義を持つことであり、
定義するとは、定義する対象以外も定義できなくてはならず、それはこの世・宇宙が必ず付きまとうからである。
この世や宇宙といったものが完全にわかっていないのに、その一部分である定義しようとしている対象が定義できるはずもないのである。
だから、理解とは自分なりの「なんとなく」な感覚を如何にしっかりとしたものにしていくことと考える。
とりあえずのしっかりしたものが出来たと思い込んでおくのである。
そうしないとキリがない。

さらに、文章はその「記号」を集め、組み立てて、ある感覚を表したものである。
文章を書いた人は当然その感覚を持っているはずである。
その「感覚」を完全に共有することが完全に「理解」するということである。
よって、突き詰めれば完全に本の内容を理解することは不可能と言わざるを得ない。
著者の感覚(観念)は読者にはいちいち説明されないし共有できるはずもないではないか。感じ方は人それぞれなのだから。
よって、読者は概念によりせいぜい理解に努める他はないのである。

さて、具体的な方法だが、
一つには、○や□などの記号、数字だけのページを見ることや、
無意味な文字が羅列されたページを読むといった訓練方法がある。
こうして徐々に音声化する癖を消していく。

そして、段々と普通の本においても、
文字を読んでいくという感覚より、形を認識する感覚を持てるようにするのである。

また別の方法として、こちらの方が有効だと思うのだが
心の中に、音声を調整するつまみや、ボタンをイメージする。
本を読む際に、そのつまみなりボタンで音声を小さくするイメージを持つのだ。
一回これができると、あとは慣れるだけである。
最初は意識して音声を小さくするイメージを持つ必要があるが、
慣れ=無意識で、いちいちイメージを持たずとも音声がなくなる。
すると、不思議だが文字の形そのものに意識が集中できる。